平成19年8月3日 平成19年度 定時総会の開催
台風5号の北上に伴い、その影響を心配しておりましたが、大した事もなく19年度の定時総会を8月3日(金)午後6時より、京王プラザホテル2階「エミネンスホール」において開催致しました。
ご来賓として学員会本部より金井 重博副会長を大学本部からは加用 久男常任理事をお迎えする予定でしたが、加用常任理事につきましては翌日大学本部での工事打合わせ会議が入り欠席となりました。当日は和田支部長以下79名が出席致しました。
総会に先立ち和田支部長よりご挨拶を頂き、続いて支部長の司会進行により第一部の総会に移りました。
第一号議案:平成18年度事業報告並びに収支決算報告について
西原幹事長より別添資料に基づき報告があり、全員異議なく承認されました。
その他として当支部の顧問、相談役、役員、幹事が任命され、今後2年間支部運営に協力を頂く事になりました。
又昨年に引き続き、本学創立125周年記念プロジェクト事業に対する寄付の還元支援金(333,000円)が大学本部より振り込まれ、これに当支部より若干プラスし計50万円を寄付として贈呈したい旨提案され、異議なく承認されました。
第2部の卓話に移り、講師の笹岡
征雄氏より
「日本の女子マラソンはこうして始まった…・」と題して講演を頂きました。前段は笹岡先生の40年に亘るマラソン人生を振り返り、その活躍を記録したビデオを鑑賞しました。
「私は岩見沢で生まれ、将来は親の営む漁魚店の跡継ぎをしようと考え、岩見沢から北海高校へ入学しました。その時に自分には才能があるのでは…と思い、努力して陸上を続けていくには中央大学しかないという決心のもと、入学致しました。
当時の中央大学は昭和33年〜38年に掛け、箱根駅伝の6連覇を成し遂げ、その間の4年間を在籍していました。それはあらゆる対抗戦で部員が力を合わせ勝ち取った証であると、今も思います。
私が昭和38年中央大学商学部を卒業後、なぜ体育の教師をしているのか、その経緯をお話したいと思います。
当時、北星学園理事長の時任先生と出会い、先生から是非教職を取って、北星学園高校の教師として来て欲しいと要請され、教職の単位を取り、体育指導の道を歩む事になりました。北星高校で4年間勤め、その後札幌学院大学でお世話になり現在に至っております。今日で40年を経過し、私はこの40年の節目を機に一つの集大成でもあり、また新たな出発点として、まだまだ頑張ろうという夢を持って本を出版しました。
私が指導を始めた40年前は、「女子にはマラソンは無理」という反対意見が多く、走ったり飛んだりするのは男のやる事という風潮も残っており、一般女性はあまりスポーツに親しんでいませんでした。走る事が嫌いな母親が、果たして走る事の好きな子供を育てられるでしょうか…。
女子マラソンに取り組んだ背景にはこうした思いがありました。
私の指導の原点は、中央大学の陸上部に在籍した4年間の経験です。箱根駅伝6連覇の黄金期を迎えていた長距離陣の練習方法を間近にみていたので、ペースを落とせば女子でも長距離を走り抜けると確信しました。
学生達には、長距離になればなるほど、体質や体力よりも精神力の必要性を説き教えました。
1973年、男子チームに交じり女子選手達を小樽・積丹駅伝大会に初参加させ見事完走。
続くその年の末には稚内〜札幌間約400キロ、翌年夏にも釧路〜札幌間約380キロを女子選手だけでリレーしながら走破しました。
札幌学院大学には体育学科はありませんので、運動能力に秀でた学生がいたわけではなく、ごく普通の学生です。これらの駅伝の結果から女子にもマラソンが可能だという自信を一層深め、次のステップに踏み出す事になりました。
当時の日本には女性を参加させてくれるマラソン大会がなく、米国の「ボストンマラソン」に出場しようと考えました。それには日本陸連の推薦が必要であり、その為に1975年に「網走〜女満別間往復」の陸連公認コースを走りました。これが日本初の女子マラソンとされています。
母と子がともに走る姿を夢みて指導を続け、その結果が遂に2年後の1977年4月17日、4人がボストン大会に出場し、ひたすら付いて来てくれた学生達には感謝しております。
また大学だけにとどまらず、女子マラソンの市民クラブを組織する活動にも取り組んで来ました。現在札幌学院大学の留学生を通じ、韓国や中国とのマラソン交流も続けています。
2001年には札幌学院大学と中国人民大学の合同チームで北京国際駅伝に出場し、三位に入賞しました。あと2年で定年を迎えますが、今後もマラソンを通した新たなる挑戦を考えて参りたいと思います。」
笹岡氏はこの様に講演を結ばれ、今なお熱く語られる心の内に、限りない「長距離走者」のお姿を見る思いがありました。
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開会の挨拶 和田支部長 |
卓話「日本の女子マラソンは
こうして始まった・・・」笹岡先生 |
ご来賓の学員会
金井副会長 |
第3部は金井副会長のご挨拶と乾杯の音頭により懇親会に入りました。
金井副会長のご挨拶の要旨は下記の通りです。
@・学員会前会長の中山
正暉氏の退任により、後任に評議員会議長の久野
修慈氏(塩水港精糖
(株)代表取締役社長)が決定。
A・学員会の財政悪化に伴い10数年前から懸案問題として検討審議されて来た代理徴収制度がこの度承認され、在校生にも予備学員として登録して貰う事になりました。
4年時に20,000円を徴収し学員会の財政基盤の健全化を図る事になりました。
B・平成18年度新司法試験の合格者は全国で第1位。旧司法試験の合格者は全国で第3位。
C・平成20年4月に本学ビジネススクールを後楽園キャンパスに開校(専門職大学院戦略経営研究科)。
D・平成20年4月に本学理工学部に生命科学科を新設。
E・都心の校舎整備をすべく後楽園校舎の再開発を図る。
F・専門職大学院の校舎の建設。
G・海外の大学との交流を活発に行い国際化を図る。
会も進みアルコールが入るにつれ、7台のテーブル毎に着席の学員は終始和やかな雰囲気で、会場内では名刺交換や日頃ご無沙汰している先輩への挨拶回り等が行われておりました。
次いで恒例となっている新規入会の会員紹介に移り、下記の学員が壇上にあがり一言づつ自己紹介・自己PRを行いました。
・阿倍 優子 平成17・大学院 (株)ライセンスアカデミー大学新聞社
・荒谷 守一 昭和62・経済
(株)グランドビスタホテル&リゾート 札幌グランドホテル 人事課長
・伊東 和紀 昭和49・法 北海道総務部 危機監理官
・越智 重和 平成2・商 ホスピタリティマインド代表
・柏野 大介 平成15・法 恵庭市議会議員
・久保田 直樹 昭和60・商 日本中央競馬会札幌勝馬投票券発売所 所長
・笹岡 征雄 昭和38・商 札幌学院大学
人文学部 教授
・鈴木 潔 昭和49・経済 学校法人東日本学園 北海道医療大学事務局
次長
・前島 治基 平成6・経済 前島
治基税理士事務所
・谷津 正雄 昭和41・法 札幌簡易裁判所
裁判官
新規入会者の紹介 |
4月の地方選挙で当選の3氏 |
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途中からご参加の上田札幌市長 |
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公務等でご多忙の中、途中から参加頂いた上田
文雄札幌市長からは、2期目の当選のお礼とそれに向けての熱い思い、日頃の市政に対するご理解とご協力のお礼のご挨拶がありました。
「2期目がスタートするに当たって私が追求して来た課題は、市民が主役になれる地方自治体を目指し、その事をテーマにもっともっと推進させて行きたい事です。
これからは北海道の時代だと言われて久しいが、「北海道における札幌市はどうあるべきか」を議論して行きたいと考えております。
北海道の最大の資源は何かと言った時に、私はそれは当市だと申し上げております。
札幌市という189万の人口を抱え、78,000件という事業体があり、知恵もマンパワーも他の道内都市に比べ、圧倒的に富の集中が当市にはございます。
札幌という資産をどのようにして他の179の自治体が活用するかということが、これからの北海道の行くべき姿ではなかろうかと考えております。北海道が本当に活力を持ち、素晴らしい北海道の未来を形づくって行く方向づけに、札幌の力は絶対に必要と位置づけ、是非皆様の様々なお知恵もお借りしたいと思います。札幌市を豊に、これぞ私達が住む北海道だと言えるよう頑張って参りたいと存じます。」
続いて4月の地方選挙で北海道議会議員に当選された道下
大樹氏(平成10・法)、札幌市議会議員の小倉
菜穂子氏(昭和54・法)、恵庭市議会議員の柏野
大介氏(平成15・法)が紹介され、3氏からは当選のお礼と行政に対する抱負を聞かせて頂きました。
次いで恒例となっている校歌・応援歌・惜別の歌を全員で合唱し、今回の新規入会者に和田支部長、上田札幌市長、石林特別顧問、小林
千代美氏(平成4・法)等の諸氏が壇上に上がり、校歌・応援歌は3番迄フルコーラスで熱唱し、最後の惜別の歌に至っては全員が輪になり、肩を組むなど誰もの心に過ぎし青春時代が去来した事でしょう。
最後は籏本副支部長と石林特別顧問が壇上に上がり、大学・学員会・札幌支部の繁栄と、参加者のご多幸・ご健勝を祈願し、万歳三唱で盛会のうちに和やかに終了、散会となりました。
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